人はなぜ絵を描くのでしょう?(夏目漱石編)

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
ご存じ、夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の文章です。
少々ネガティブな文章ですが、まったくその通りと共感する方が多いのではないでしょうか。
私もその一人です。
そして、数行後に今度はポジティブな、こんな文章につながっていきます。
「越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容で、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」
詩や絵など、芸術は結果的に人の世を長閑にし、人の心を豊かにしていますが、詩人や画家は、それを目的とした訳ではありません。
従って、なぜ人は絵を描くのかの答えにはなっていないのですが、小説はこの後、主人公である画家が登場し、この画家が下界(社会)を離れ(逃避)、一人山の中の温泉宿に逗留し物語が進んでいきます。
小説では、非人情という言葉がよく出てきますが、これは不人情という意味ではなく、私の思うに、何の気兼ねもない、気を使う必要のない自身の心持の事で、またそれを可能ならしめる場所や状況の事だと解釈しています。
そのために画家は人里離れた山奥に逃避してきたわけです。
また、こんな文章も出てきます。
「善は行い難い。徳は施しにくい。節操は守り安からぬ。義の為に命を捨てるのは惜しい。これを敢えてすることは何人にとっても苦痛である。その苦痛を冒す為には、苦痛に打ち勝つだけの愉快がどこかに潜んでおらねばならん。画というも、詩というも、あるいは芝居というも、この悲酸のうちに籠る快感の別号である。」(※悲酸はそのママ)
見事な文章ですね。
少し分かりにくいので、あえてここでは詩と芝居を除き、私流に言い換えます。
「良(善)い行いをするのは難しい。立派なことはなかなか与えられるものではない。道徳を固く守るのは簡単ではない。忠義の為に命を捨てるのは惜しい。これを敢えて行うのは、誰にとっても苦痛を伴う。その苦痛を押し切ってまで行うのは、その苦痛に打ち勝つだけの楽しさや快楽がなければならない。画を描くことは、この悲惨の中に籠っている快感の別名である。」
となります。
美術評論家・美術史家の書籍もだいぶ読みましたが、こんな感動的な文章にお目にかかった事がありません。

私はこの小説を読んだ後、漱石先生に「人はなぜ絵をかくのでしょうかね?」と訊ねてみたくなりました。
答えを小説全体から想像して、こんな答えが返ってくるような気がします。
「人間社会の中で生きることは、楽しい事ばかりではない。むしろ辛い事、苦しい事、悲しい事も多くある。しかし、少しでも生きやすい工夫を各人がしているものだ。詩人は詩を読み、画家は絵を描く。釣り人は魚釣りをする。一種の逃避だよ。無意識のうちに長閑で豊かな世界に一時逃げ込むために人は絵を描く。そして絵が出来る。そして、その絵は万人の心を豊かにするという思わぬ効用もある。うまく出来ているものだ。それが芸術だ。」
この小説から読み取れる、私の感じた漱石先生の答えです。
一言でいうと、人が絵を描くのは逃避である。となります。

尚、この小説は、小説という形をとった夏目漱石の芸術論と言って差し支えないでしょう。
その最たる文章を下記に紹介します。
「放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は画に於いて、必須の条件である。」
ここでいう余裕とは、なにものにもとらわれない自由な心のことで、それを当てはめると
「なにものにもとらわれない自由な心と無邪気な心は画家や絵にとって必須の条件である。」となります。
もちろんこれは、夏目漱石の文学論でもある訳です。

子供の頃は無邪気な心を持っていたのですが、何処へ行ったのでしょう。
なにものにもとらわれない自由な心も、今は見当たりません。
大人になればなるほど、兎角に人の世は住みにくい。ですね。
私も人里離れた山奥の温泉宿に逃げ込んで、非人情になって絵を描いて暮らすことにします。(本当か?)

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