人はなぜ絵を描くのでしょう。「自己保存欲」編
Some of these days.
Y0u’ll miss honey.
この英文を語学に堪能なあなたはどう翻訳するのだろう。
私達は誰でも永遠に生きることはできません。いつか死ぬことは子供でも知っています。
いつだったかラジオの子供電話相談室で「人はいつか死んでしまうのに、どうして生きているの?」と質問した子供がいました。回答者がどのように答えたかはすっかり忘れましたが、この子の質問だけは覚えています。ちょっと脱線しましたが、このように生あるものはいつか死に至ることは子供でも知っています。
そこで人はいつか死ぬけれども、それをなるべく先送りにしたいと切望します。
そんな願望が医学の発展をもたらし健康に関する情報があふれその結果、一昔前、二昔前から比べると確かに平均寿命は延びました。しかし、延びたとはいえ相変わらず死は必ずやってきます。
永遠に生きたいという欲望は誰にでもあるのですが、ほとんどの方がそれを意識していることはないと考えます。言い方を変えると無意識ではあるが「永遠に生きたい」という願望は誰にでも存在しているのです。
その無意識の願望が芸術行動として現れているのではないかというのが自己保存欲説の根拠です。
小説家は小説を書き、彫刻家は彫刻を作り、画家は絵を描く。自分を自身の作った作品という形で自己保存欲を満たしている、あるいは満たそうとしているというのです。なるほど。
確かにそのような要素はあるかもそれません。しかし、それは絵を描くひとつの要因ではあったとしても大きな要因とは思えません。
そもそも人がなぜ絵を描くのかの答えを一つだけに求めるのには無理があります。
さて、冒頭の英文はジャンポール・サルトルの小説「嘔吐」に使われたジャズの歌の詩です。
翻訳者である、鈴木道彦氏は次のように翻訳しています。
Some of these days. (いつか近いうちに、いとしい人よ、
You’ll miss me honey. 私の不在を寂しく思うでしょう。)
小説ではこの詩が大きな役割を担っていて、主人公が小説を書こうとするきっかけとして使われています。
小説の中で主人公がこんな事を言っています。
「本が書かれ、それが私の背後に残る瞬間が必ずやって来る。そして、本の多少の光明が、私の過去の上に落ちるだろうと思う。そのときおそらく私は本を通して、嫌悪感なしに私の生涯を思い出すことができるだろう。」と。
主人公が、自分自身の存在理由(本質)を見出すには小説を書くことかもしれないとの考えが固まってくる過程が書かれている個所です。その過程において上記の詩がうまく使われています。
小説を書くことによって、いつか自身を振り返ったときに、ただ過去においてのみ自分を受け入れることができるだろうと。
詩においての現在と未来。主人公においての現在と未来。うまく使っています。
死に至る前に嫌悪感の無い自分を見たい。それは死後の永遠性ではなく、生きている内にその意味を探るために小説を書くということです。
小説の主人公がサルトル自身だとすれば、その後サルトルは孤独の中で創作活動をしたと考えられます。
サルトルは自身の本質探しのために小説を書いたといえるでしょう。それだけではないにしても。
小説と絵の違いはあるにしても、人が絵を描くのは、自己保存、本質探し、どちらも理由としてあり得ると言えるでしょう。
その他、たくさんの理由が複雑に絡み合って人は絵を描くのでしょう。
I miss you dear.
残念ですが私の場合、絵を描くことによっても、いつか近いうちも、遠い先も、嫌悪感の無い自分を見ることはできそうもありません。(涙)